著:雨宮処凛、萱野稔人
光文社刊 光文社新書
☆☆☆☆
ゼミ関連読書。
プレカリアートの雨宮処凛と哲学博士の萱野稔人対談本。
処凛が自身の過去の経験や、現状の運動から見る社会構造を
おおまかに語り、萱野が自身のフィールドであるフランスの文化
なんかを駆使しつつ、一つ一つを丁寧に読み解いていく、という感じ。
対談本故に非常に読みやすい。
それでいてきちんと押さえる所は押さえてるので、
得られるものは凄く大きかったです。
全然難しくないし、貧困問題の入門には丁度いいかも?
雨宮処凛、私より一つ上なのかな?ほぼ同年代なので、
この人が生きてきた背景とかが想像しやすいので、
個人的に凄くわかる感じで良いです。
世代の違いから来る感覚の差ってどうしてもあると思うし、
そんな中で自分と同年代の感覚として読めるってのは
かなり助かる。
去年から延々とモヤモヤを募らせて悩みまくってるのですが、
この本を読んで「なるほど」と納得できた部分は凄く多い。
ここからいきなり自分語りを始める。
私は自己肯定感が無い。
すんごいありきたりだけど、
「自分なんか生きてる価値の無い人間なんだ」
って感覚はやっぱり常に持ってる。
そりゃそうだ。人に肯定された事が無いんだもの、
そんな人が自分を肯定なんてできるわけないわな。
小学校の頃にいじめで登校拒否とかなったけど、
そもそもがいじめられるって、やっぱりそういうタイプだったし。
暗くて、汚くて、運動は常にビリケツ、勉強もできないし、
コミュニケーションも全然ダメだった。
いかにも嫌われ者でいわゆるクラスのお荷物。
いじめられる前だったかな~?後だったかなぁ?
そこは憶えてないけど、今でも記憶に残ってんのは、
修学旅行か何かの班決めで、誰も一緒の班になる人が居なくて、
最後まで一人ポツンと残ってたのが今でも曖昧ながら記憶にある。
そそ、だから遠足とかも凄く嫌で、一度休んだ事もあったような?
うん。イベント事とか大嫌いだった。
もうその時から、存在そのものが他者に迷惑をかける
自分はこの場所には居ない方がいい人間なんだ、
っていうのは思ってて、そのまま誰にも肯定されないまま
大人になっちゃったんだな。
いじめられっ子の典型的な感覚として、
親とか先生にも助けを求めないのは、
その人達に自分の事で迷惑をかけちゃ悪いよな、ってのがあるから。
その親なり先生なりに対しても、自分は居ない方がいい存在なんだ
って思ってるわけだし。
全部一人で背負って、自らまで自分を責める。
他人から承認を得られないどころか、自分で自分を否定する。
勿論、他人との接触もなるべく避けるようになるし、
そうすると今度はますます肯定(承認)を得られなくなるという
驚異のひきこもりネガティブスパイラルが発生!
その先にあるのは自分を無くしてしまう事
自殺って選択に自然と辿りつく。
やっぱり去年も自殺者3万人越えてたし、
それこそ無差別殺傷事件とかも起きちゃうわな。
昔、爆笑問題の大田が、そんなので自分を表現しても、
TVで流れるニュースなんてほんの一瞬だけで
あっという間に忘れ去られるだけなんだからやめとけ、
みたいな事を言ってたんだけど、別に世の中に名前を残す
ヒーローになりたいわけじゃないんだよ。
そのたった一瞬だけでも自分の存在を知らしめたいんだよ。
逆に言えばそのたった一瞬の承認ですら得られないでいるんだよ。
そういう行為を肯定なんてしないけど、その気持ちだけは
痛いほどにわかる気がする。
急にゼミのオーケン論に話を繋げると
その辺の事は昔から何度も何度もオーケンは書いてるんだよなぁ。
去年の12月にもまたあったじゃん。
友達なんか一人も居なくて休み時間には太宰を読んでたって人。
あのニュース聞いて、嗚呼なんと典型的な、と思ってしまった。
そんな間違った選択をしてしまう程に
心が貧困化してるのが問題なんじゃないの?
それが正しい事なんて多分本人も思ってないけど、
それしか選べなかった。それしか知らなかった。
今度は本の内容に戻ると、リスカとかオーバードーズ、援交とか
右翼化でも何でもさ~、他人から見たらそれ違うんじゃないの?
とか思えるような事でも、きっとその人にはそれしか選べない。
その選択の幅の狭さこそが貧困ってものなんだろうなと。
そこ考えると、ひきこもりって実は相当にヤバイ状態。
「人は一人じゃ生きられない」とかいうけど、
あれって今までは、一人で何でも出来る人なんて居ないから、
お互いに支えあっていくものなんだよ、
程度に思ってた部分が正直あるけど、実はそうじゃなくて、
承認の問題だったのかなと改めて思いなおした。
いじめであるとか、後は家族の問題とかも色々あるけど、
決してそいう過去なり人なりを恨んだりとかはしてない。
ただ、そういう積み重ねがあるから、今の自己肯定できない
自分が居るんだな、って今さら気づいたかもしれない。
あと、この本で個人的に凄く面白いなと思った部分が一つ。
萱野「暴走族って、学校教育に適応できなかった人たちがべつの
共同体をつくり、その絆のもとで助け合うというシステムの
ひとつのかたちですよね」
ってのが、ああナルホド!と物凄く腑に落ちた。
ヤンキーとか不良って、よく「アウトロー」って言い方されるじゃん。
どこがアウトローなんだ?集団で徒党を組んでんじゃん?
もうメジャーもメジャー。つーかありきたりなものの典型。
どう考えたって恥ずかしいぐらいの「ベタの極み」ってものじゃないの?
言葉で言えば本当の「アウトロー」って、どこにも自分が帰属できる
場所がなくて、世の中から本当にドロップアウトするしか
なかった人達でしょ?
いわゆる社会的に真っ当な道とかではないのかもしれないけど、
世の中に迷惑かけたり、暴力をふるったり、弱者から
金銭を巻き上げたりとか、悪い事をしているはずなのに、
何故か世の中には「カッコイイ」とか言われる不思議な存在。
仲間も居るし、モテるし、思いっきり勝ち組じゃん。
一体それのどこがアウトローなの?ってずっと思ってました。
なるほどなるほど、出発点はアウトローだったのかもしれないけど、
それをコミュニティのシステムとして作り上げた、彼らなりの
生きる手段だったんだなぁと、目から鱗が落ちました。
(去年の「闇の列車、光の旅」でちょこっと語ってるのはそこです。
丁度この本を読み始めてた時期なので)
じゃあそういう所にも帰属できない人。徒党を組む事ができない
人達はどうすりゃいいのよ?
そこで出てくるのが処凛のやってる「プレカリアート」なんだなぁと。
で、オーケンなんかはそこまでの社会的観点は持ってない人なので、
ただ漠然と、オタク・ニート・ひきこもり・ルサンチマン・ゴスロリとか
そういうキーワードを並べてたんじゃないかと気づいた。
プレカリアートって言葉そのものは昔からあるみたいだけど、
処凛が特にそれを使うようになったのってここ3~4年ぐらい?
割とその手の生きづらさを抱えるような人達の総称として便利だなぁ
とか思ってたりするのですが、私は定義がまだよくわかってないので
間違ってるかも?
オーケンはそういう、いわゆる負け組とかダメ人間とか、
そういったプレカリアート系の人達に対する承認を
ずっとやってきた人なんだなと。
前に読んだ「オールニートニッポン」で、何故この本で
オーケン?ちょっと一人だけ浮いてるような?とか思ったけど、
実はちゃんと文脈的にも繋がってる人なんだって思えてきた。
物事を一つの点として捉えるんじゃなくて、線として捉える事で
色々な物に繋がっていく。こりゃあ面白い。
非常に収穫の多い一冊でした。
関連記事
雨宮処凛の「オールニートニッポン」
http://truth.mo-blog.jp/area/2010/11/post_453a.html
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